数学が苦手なこと、あるいはまだ来てないもの

2020年春学期、大学で「データ分析」の授業を担当した。

 受講生450人以上の大きなクラスだが、コロナ対応のため、急遽全面的にオンライン授業に移行することになった。どうすれば学生の学習効果を最大化できるのか――、受講生一人ひとりの顔がみえないなかで、試行錯誤した。学生からリアルタイムで反応が得られないオンライン授業は、教員にとっても孤独だ。授業内容に、デリバリーの方法に、大きな問題がないかを確認する目的で、授業期間中に2回、無記名アンケートを実施した。

 今回、その自由記述欄の回答でとくに目をひいたのが、「自分は数学が苦手なのですが・・・」という前置きをする学生がとても多かったこと。数学が苦手なのだけど、思ったよりわかりやすかった、やはり難しかった、なんとか最後まで走りきれた、この先はどこまで難しくなるのか不安だ・・・とさまざまなコメントがあった。その点について思ったことを、学生に伝えたい。

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みなさん、まずは授業お疲れさまでした。そして、たくさんのコメントをありがとう。「数学が苦手です」という話を読みながら、半分は「わかるな」と共感してました。私自身、大学時代に数学が苦手だと思っていた一人だからです。でも半分は、そんなこと思わなくても良いんだけどな、とも思います。思ったら良くないわけではないのだけど、少しもったいないような気もします。それにはいくつか理由があります。

 まずひとつには、「数学が苦手でも、データ分析をするうえで、もはやあまり支障がない」ということがあります。もちろん、数学が得意であることに越したことはなく、データ分析で独創的な知見を生み出そうとするなら分析法を厳密に理解することが必要かもしれません。しかし、いまや社会における「データ分析」の裾野は、とてつもなく広がっています。最先端の「データサイエンティスト」だけが、「データ分析」にたずさわる訳ではありません。皆さんが大学を卒業して企業に就職したとき、事業会社であれば営業/マーケティング/商品開発/会計/人事などあらゆる部門で様々なデータ分析の業務に携わることになるでしょう。あるいは、コンサルティング会社・マーケティング会社・シンクタンク・情報サービス会社など、データ分析そのものが仕事である業種につく人もたくさんいると思います。それらの仕事で行われているデータ分析は、なにも難解な数学を駆使する高度な分析ではなく、その大部分が統計学的みれば基礎的で定型化された分析です。基礎的だからといってそうした分析の価値が低いわけではなく、むしろ日々の企業のオペレーションや意思決定を支えている重要な情報を生み出しています。そしてそうした仕事は、そのかなりの部分が文系出身者によって占められています。いまでは専門的な統計分析でさえソフトウェアの進化によって数学的な理解がなくても使いこなせるようになっています。それはちょうど、語学において自動翻訳ソフトが急速に進化している状況と似ています。数学や語学の知識はそれでも必須だという意見もあるでしょうし、正論としてはそのとおりなのだけれども、とりあえずは目の前の便利なツールを使うことも必要です。むしろ、これからのデータ分析には、大きな文脈を見る力や、データからストーリーを語る力、新しい視野で現実を切り取る力など、文系学問で培われる能力もますます重要になってくると思います。だから、もしあなたが数学が苦手だとしても、それをデータ分析をする上でのハンディキャップだと感じることなく、自分の強みを頼りにして積極的にチャレンジしてほしいと思ってます。

 ふたつめは、「数学が苦手だと思っているけれど、じつはそうでもないかもしれない」という可能性もあります。私自身、文学部出身で、高校生の頃からながらく「自分は数学が苦手だ・・」と思ってきました。大学を卒業して働きだしてからも、自分の強みは文章力や英語などいわゆる文系スキルだと思ってきたし周囲にもそう公言してきました。私がその「数学が苦手」という看板をおろしたのは、イギリスにMBA留学したときです。MBAのプログラムでは世界中から色んな専門性を持つビジネスマンが集まって、チームを組んで様々な課題に取り組みます。私はそこで、これまでの自信や自己評価があっさり打ち砕かれました。日本にいるときには得意だと思ってきた英語が、クラスやチームでの複雑なディスカッションや交渉においては、もうまったく使いものにならない。提案書や報告書の構成力には自信がありましたが、英語ではどうもピント外れ・・。でも、何かアピールできる強みがなければMBAコースを生き延びることはできないから、誰もが必死に自分が貢献できる点を探します。私の場合、結局それは数学的な知識とスキルでした。実際、多くの科目のなかでもっとも良い成績を取れたのは、自分が専門分野と自負するHuman Resource ManagementではなくOrganisational Behaviourではなく、FinanceとAccountingでした。自分の数的なスキルがとつぜん伸びたはずはないのですが、それでもこの環境においては他のスキルに比べて相対的にマシだったわけです。この時点でも私は数学・数字が好きではなかったのですが、売れるものを売るしかない。それで、これらの科目でクラスメートを助けたり、プロジェクトワークで数字面の検討を担当しました。この経験から、自分が何が得意でどんな価値があるかなんて、周りの状況が決める不確かなものなんだと痛感しました。日本の教育環境に制約された評価なんて、海外では大した意味を持たないことも多い。一方、AccountingやFinanceが苦手なクラスメートの多くは、それがまた本当に苦手なのですが、ちっともそれを問題だと思っていないようで「こういうのはCFOがやることだからね(注:自分はCEOという前提)」と受け流していました。プログラムには欧米人だけではなくアラブ・ラテンアメリカ・アジアからの参加者もいますが、多くのクラスメートは苦手なことを克服するより、得意なことに注力するのが大事だと考えていました。私もいまでは、その考え方に賛成です。だから、皆さんにも、これまでの限られた経験や環境で下された評価によって自分の得手不得手を決める必要はないのだということと、もし本当に数学が苦手でもそれはたいした問題ではなく、代わりに得意なことを数えれば良いのだと、伝えたいです。

 3つめは、「いまは数学が苦手でも、これから得意になるかもしれない」ということです。私は、いまでは複雑な計量分析を扱う方ではないかと思いますし、こうして大学でデータ分析の講義をしています。しかし私が本格的に数学を勉強したのは、10年以上つづけたコンサルタントの仕事をやめて、研究者を目指して大学院に入り直したときで、年齢は30代後半になっていました。それも、最初から数学をやる計画があったわけではありません。たまたま入った大学院(大阪大学大学院国際公共政策研究科)が、非常に良質な計量研究のトレーニング・カリキュラムを持っていて、そしてたまたま良い先生方にも恵まれたことで、結果的に自分では期待もしなかった知識とスキルを身につけることが叶ったというだけなのです。経済数学とミクロ経済学を担当された先生の授業は、学ぶ楽しさを存分に感じることができた忘れがたい講義です。微積分や確率論の基礎から学びなおしましたが、高校時代には無味乾燥なものでしかなかったこれらの知識が、経済学の理論の中でどのように使われて、現実をどのように切り取り説明しようとするのかが見えてくると、目の前にまったくあたらしい世界がひらける思いでした。経済学理論って美しい・・・と思えて、自分が数学をそんなふうに楽しいと感じるようになるなんて、それまで想像したことがありませんでした。

 学生のみなさんに一番伝えたいのは、そういう時がやってくる、ということかもしれません。いまは苦手な数学がずっと先で好きになるかもしれないように、思いがけない展開が将来起こります。しかも、結構頻繁に起こります。それはまた、「学び直しのとき」でもあります。皆さんの多くは、4年間の大学生活を終えると企業で働き始めるのだと思いますが、いまの時代、ひとつの企業・ひとつの仕事をずっと続けることは少なく、どこかのタイミングでかならず「学び直し」のときがやってきます。長いキャリアの中では、きっと一度ならず何度もやってくると思います。それは悪いことではなく、むしろどれだけ柔軟に学びなおせるかが、これからのキャリアの充実度を決めるように思います。だからそんな状況に直面したとき、皆さんが「数学は苦手だから・・・」という先入観で自分の可能性を狭めてしまわないといいなと思います。何歳になっても何かを学ぶのに遅すぎるということはないし、いつになってもまだ自分の人生にやってきてない良いものがあるものです。

 この春コロナの感染拡大で、あっという間に回りの世界が変わりました。当然にあったはずのキャンパスでの大学生活が、手の届かないものになってしまった。これからどうなるのか先が見えないし、将来にどう備えればよいのかも、とても不安だと思います。これからの世の中の動きはより速くなるのかもしれないし、逆に今までよりペースダウンするのかもしれず、ますます予測不能です。そんな中で振り回されずに自分のキャリアを積み上げていくことは、簡単なことではないと思います。でも、なにが正しいことなのか他人は教えられないからこそ、自分の中に目を向けて、自分が成長できるところを探り当てることが大事なようにも思います。短期的には思い通りにいかないことが、かえって長い時間の中でよりよい結果につながることもある。自分の成長を信じて、新しい出会いや学び直しの時が訪れるのを楽しみに待つような、そんなしなやかなキャリアを築いていってほしいと願っています。

 2020年春学期のクラスを受講してくれた皆さん、お疲れさまでした! 残りの学生生活が有意義なものになることを心からお祈りしています。そして、またどこかで会えることがあれば、ぜひ声をかけて下さい。楽しみにしています。